江戸名所図会に描かれた東海寺
品川区に東海寺というお寺があります。山号は万松山で正式には万松山東海禅寺。京都にある臨済宗大徳寺の末寺として、寛永15年(1638年)に家光の命により作られました。開山は沢庵和尚として知られる沢庵宗彭(そうほう)。当初は寺院というよりも沢庵和尚の屋敷としての性格が強かったため、沢庵屋敷と呼ばれていたようです。
沢庵和尚と東海寺
たくあんの発案者?沢庵和尚
沢庵と聞くと漬物のたくあんが思い起こされます。沢庵和尚が考案したためたくあんと呼ばれるようになった、という説もありますが、大根を使った漬物として、貯(たくわ)え漬け、と呼ばれた漬物があり、それが転じてたくあんとなったという説もあります。また、家光と沢庵の関係をうかがわせる、以下のようなエピソードもあります。
ある日、東海禅寺に沢庵和尚を訪ねた家光。何か珍しいものを食べさせてくれと所望。禅寺なので珍しいものはない、と貯え漬を献じます。それを食した家光は「これは貯え漬ではなく、沢庵漬けだ」
沢庵和尚と家光
上記のエピソードからも読み取れるように、沢庵和尚と家光は非常に近い間柄だったようです。
沢庵和尚は但馬国(現在の兵庫県)出石の出身で、10歳の時に出家、後に京都に出て、14歳で大徳寺に入門しています。その後、主要な寺院の選ばれたもののみが着用を許される紫衣の勅許を得ています。
元和元年(1615年)に発布された「禁中並公家諸法度」が沢庵和尚に転機をもたらしました。禁中並公家諸法度は、公家の行動規範や、天皇が何をすべきかを定めたもので、公家の生活、行動を幕府、武家が制限するものでした。
禁中並公家諸法度には寺院に対してむやみに紫衣を勅許を与えることの規制や、住職、弟子を持つための厳しい規定も含まれていました。
寛永4年(1627年)には、この法度が守られていないことを理由に、すでに下された紫衣着用の勅許が取り消されるという事件が起きます(紫衣事件)。このことや、弟子の修行もままならない厳しい昇進の制度について危機感を持った沢庵和尚ら3人は幕府の措置を批判する意見書を提出。それが原因で、沢庵和尚は出羽上山に流刑となってしまいました。
寛永6年(1629年)から寛永9年までの3年間を上山で過ごした沢庵和尚ですが、秀忠の死去による大赦や、天海僧正の斡旋などにより京都に戻ります。
家光との出会いは寛永11年(1634年)のこと。家光の信任が厚く、沢庵和尚とも交友関係のあった柳生但馬守宗矩らの仲介により、二条城で家光に拝謁しています。沢庵和尚に心を寄せた家光は寛永14年(1637年)、景色がよく、自身も鷹狩で通う品川の地に居住することを進め、品川神社の敷地の一部と、長徳寺など4つの寺を移転させた跡地の約47000坪を沢庵和尚に与えます。その翌年の寛永15年、沢庵屋敷と呼ばれる屋敷が完成、翌寛永16年(1639年)、東海寺と命名されました。
海近く、東(遠)海寺とはいかに
大軍を率いて、将(小)軍というに同じ
東海寺を訪れた家光とのやり取りにも二人の関係性がうかがえます。
東海寺の繁栄と現在
東海寺は幕府の庇護のもと、大名など多くの帰依を集めます。そのため、広大な敷地内に清光院、高源院など数多くの塔頭が造立されていきます。その後も山門が整備されるなど、東海寺はますます繁栄していきます。
しかし、明治維新以降、幕府や大名の支援がなくなった東海寺は衰退してしまいます。現在の東海寺は塔頭の一つであった玄性院が寺号を引き継いだもので、境内も当時の東海寺の位置ではなく、玄性院の境内ということになります。
現在の東海寺から少し離れたところ、山手線、京浜東北線の線路に挟まれた場所に沢庵和尚の墓があります。狭いわき道を入っていきたどり着くその場所は、かつての東海寺方丈の裏山。当時の東海寺の広さを感じます。墓石は小さな自然石を置いただけの簡素なもので、沢庵和尚の遺言により建てられたといいます。
時代とともに姿を変え続ける東京の片隅で、沢庵和尚は静かに眠っています。
参考文献
- 品川区史
- 辻達也著/日本の歴史13
- 平野栄次著/品川区歴史散歩
- 田澤拓也著/江戸の名所
- 川田壽著/続江戸名所図会を読む
- 市古夏生・鈴木健一校訂/新訂江戸名所図会