終わりの見えない感染症との戦い。それぞれの立場で大変な思いをされている方が多くいらっしゃると思います。
少し歴史に目をやると、現在の私たちと同じように、人々は多くの困難を乗り越えてきました。江戸時代のみに注目しても、感染症、地震、高波、火災など多くの災害に直面しています。
感染病と江戸時代
今よりも医療技術が発達していなかった江戸時代、現代同様、感染症は人々に恐れられていました。
特に疱瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、水疱瘡は一生のうちに1度かかる感染症として「お役三病」といわれ、年を重ねていく中で必ず越えなければならない厄ととらえられていました。
江戸時代の感染症との向き合い方
こうした感染症に江戸時代の人々はどのように向き合ってきたのでしょうか。
天然痘は現在の予防接種と同じような対策が取られていました。人や牛を媒介とする牛痘という感染症を引き起こすウイルス(正確には馬痘)を元として(種痘)、それを接種する牛痘接種法という予防が行われていました。
一方の麻疹はこれといった対処法がなく、室内で香薬や鉱物などを焚いて空気を洗浄するといった呪術的な方法がとられていました。ほかにも、解熱作用のある漢方薬を利用するといった対処療法に終始していたようです。
そのほかにも、安政5年に江戸でも流行したコレラや、明治期に神戸を中心として流行したペストなど、江戸時代にも多くの感染症が人々を襲っています。
ただ、特筆すべきは、人々は感染症のほとんどを克服しているということ。感染症と戦い、勝ち、今日まで歴史を積み重ねてきています。
天災と江戸時代
江戸時代の人々が戦ってきたものは感染症だけではありません。例えば、江東区深川の平久橋たもとに残されている「津波警告の碑」は、江戸時代の人々が高潮と戦った歴史が刻まれています。
高潮の経験から、被害の可能性がある土地を幕府が買い取り、その両端に石碑を建て後世の人々への警告としました。(高潮の脅威を今に伝える-平久橋波除碑)
人災と江戸時代
江戸は、火事をはじめとする人災も多い町でした。たとえば、築地の地名の由来は「地を築く」、埋め立てそのものを表します。
築地が埋め立てられたきっかけは、明暦3年(1657)に起きた、明暦の大火(振袖火事)にあります。大火後の土地計画で、この地が埋め立てられ、本願寺が移転して今日に至っています。(築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺)
他にも、深川地区の都市化の輪郭ともいえる、堅川の跡。明治以降の工業化に伴う、過剰な地下水のくみ上げにより、地盤沈下が発生。当時の堤防が地表面より高く残っています。(江東、深川都市化の跡-竪川)
今よりも技術が発展していなかった江戸時代。こうした困難を乗り越えるための大きな力となったのは、人々の思いやりだったのではないでしょうか。
近所のひと同士が気を遣う、助け合う。
自分たちの子供、孫が同じ困難を乗り越えられるように思いを伝える。
そうした脈々と続いてきた、ヨコ、タテの思いやりが、歴史を紡ぎ、大きな困難をいくつも乗り越えてきて今日に至っています。
今を生きる私たちにも乗り越えられない困難はないはず。
日本人はいくつもの困難を乗り越えてきたのだから。
参考文献
- 江戸東京学事典