佃の地名の由来-漁師のための人工島、佃島

佃の地名の由来-漁師のための人工島、佃島

佃の地名の由来

中央区に佃という地名があります。昔ながらの古い町並みや、船だまりが残り、江戸の情緒を残す一方、超高層マンションが立ち並ぶ景色も見られ、江戸と現代が混在するエリアとなっています。

佃と呼ばれるこの辺りは、江戸時代佃島という人工の小島でした。佃の地名の由来は、寛永年間(1624年~1644年)に摂津国(大阪)西成郡佃村の漁民たちを招いて、隅田川河口の干潟を埋め立て小島に住まわせたことにあります。隅田川河口の100間四方の干潟を摂津国から呼び寄せた漁民に与え、正保元年(1644年)に土地の造成が終わり、30余りの漁師世帯が住み始めました。

佃村の漁師が江戸に招かれた理由は、大阪湾沿岸や伊勢湾沿岸の優れた漁法を江戸に取りいえれるためであったと考えられます。江戸の人口が急増するにつれ、それまでの漁法による水揚げ量では江戸の食需要を支えきれなくなってきたようです。そのため、摂津佃村の漁師など優れた漁法を持った漁師たちが江戸に呼び寄せられました。佃島の漁師たちは白魚漁の特権を与えられ、江戸で漁を行いました。ちなみに、佃島の漁師たちが将軍に献上した魚の残りを販売したことが日本橋魚河岸の起こりといわれています(江戸時代の卸売市場-日本橋魚河岸)。

佃と月島の違い、月島の地名の由来

余談ですが、佃の南側にもんじゃストリートなどで知られる月島があります。月島は佃島とは違い、明治になり埋め立てられたエリアです。佃の南側を徐々に埋め立て、東京市に編入していきました。埋め立てにより作った「築きたる島」であること、また、海にせり出し月見に恰好な土地であったことから「月島」という地名が生まれました。

佃に今も残る佃島の名残

月島は再開発がすすみ、近代的な都市となっていますが、佃は江戸時代の名残を感じることができます。

住吉神社とお祭り

佃にある、住吉神社も江戸時代の名残を感じさせます。佃島の住吉神社は摂津国の住吉大社から勧請したもので、正保3年(1646年)に創建されました。現在も続く住吉神社の祭礼も江戸時代に始まったものです。東都歳時記にも

六月廿八日 佃島住吉明神祭礼今明日修行。竜虎の頭を渡す。廿九日の未の刻神輿を海中に舁入奉る

とあり、現在に続く海中渡御が有名であったことがわかります。

佃島発祥の名物、佃煮

住吉神社は江戸湊の玄関ということもあってか、海運業者や、問屋からの信仰が厚かったようです。それにちなむような佃煮の発祥の説が残されています。

佃島は隅田川河口に作られた離島であったため、食糧の確保に不便であったようです。そのため、漁師の保存食として作られたのが佃煮の起源となる食べ物です。献上の残りや売れ残りの白魚などを醤油で辛く煮つけ、保存性を高くした漁師のための副食物でした。

この「小魚の醤油煮」が有名になったきっかけが住吉神社にあります。航海の安全祈願に来た海運業者に、お神酒をふるまう際のさかなとして出されたのが佃島の漁師たちが食べている小魚の醤油煮でした。それに目をつけた日本橋伊勢屋の太兵衛(伊勢太)という人物でした。小魚の醤油煮を改良して、佃煮として売り出したところ、人気を博した、というのが佃煮の起源の一説です。保存性の高い佃煮は参勤交代の武士のお土産にもうってつけで、全国に広まっていく大きな要因となりました。

現在でも老舗の佃煮屋が佃の町内にいくつか現存しており、住吉神社や町並とともに江戸の名残を感じることができます。

東京に残された江戸時代に由来する地名

この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。

その他の地名の由来をみる

参考図書

  • 竹内誠著/東京の地名の由来辞典
  • 東京都/東京都百年史
  • 弘文堂/江戸学事典
  • 学生社/中央区史跡散歩
  • 金田禎之著/江戸前のさかな